黒井千次『春の道標』を読むと見えてくるもの

黒井千次の小説『春の道標』(1981年)ですが、2022年に河合塾の共通テストの模試で出題されたこともあり、ちょっと紹介したいと思います。この小説は、自分も高校生時代に国語の授業で一部を読みました。高校2年生の主人公明史と中学3年生のヒロイン棗の恋愛が取り上げられています。

時代設定は、戦後の学制改革で、新生の中学と高校が発足して間もない頃、高校生たちの政治活動もまだ熱かった時代。

時代的には、政治と愛の葛藤が背景にあるはずなのですが、学校でやったところでは、あんまし全面には出てこなくて、甘酸っぱいところが多かったです。ラブコメ大好きな同級生は授業後すぐに購入していたくらい。棗ちゃん推しになったのでしょう。

以下は、ヒロインと二人で一つのリンゴを齧るシーン

——

(棗)「あなたのは?」

(明史)「いいんだ。」

「食べて」

「君が食べて。」

暗がりで肩を寄せ合って囁き交わしていると明史の眼から舞台が消えた。身体がわけもわからず足の方から熱くなり、棗が現われて以来のぽっと火照ったようなこわばりが額から顔いっぱいに拡がってくる。彼女の温かな両手がりんごを掴んだ彼の手を包むようにして押し返して来た。

明史は唐突にりんごに齧りついた。ばしっと鳴って厚い皮が破れ、酸っぱい味が口を走った。

「こっちから齧ったから……」

彼は反対を向けて躊躇いがちにりんごを差し出した。いらない、と断わられたら全部ひとりで食べねばならぬ、と考えながら。

「ううん、そっちがいい。」

薄暗がりの中にぼんやり白く見える明史の齧り跡に口を重ねてりんごを噛む棗を感じた。顔を伏せて彼女のりんごを噛む音を彼は聴こうとした。舞台上を動く人物の足音が邪魔だった。彼は黙って手を出した。まだいくらも食べられていないりんごが返ってくる。彼女が新しく綴ったと思われる場所に深く歯を立てた。まるで彼女を食べているみたいだった。胸が激しく鳴ってりんごをのみこむのが苦しかった。

「少し、ちょうだい…」

棗の手がおずおずと伸びてくる。

「全部食べないで……。」

明史はその手にりんごをのせながら囁いた。自分の声はりんごの匂いがしてりんごの味がするに違いない、と思った。 彼女の口と同じ匂いで同じ味だ、と思った。

—–引用ここまで

ヒロイン棗の、年上の主人公をドギマギさせる物怖じしない言動などが時代を超えて楽しめるところでしょうか。特に上のシーンだと、暗い中ですから、視覚が使えない中で、りんごを渡す際に手を握る触感を刺激され、りんごを齧る際の音や匂いが飛び交い聴覚・嗅覚が刺激されます。視覚が限定されるだけに、一層、他の感覚が研ぎ澄まされるわけですね。お互いを食べている感じで口の匂いまで同じになるなんて、中高生くらいだったら、ドキドキしますね。

このようなドキドキ感だけがこの小説の特徴だとすると、余り時代の制約はない(普遍的)かもしれません。

しかし、この小説の魅力を恋愛の普遍性という観点だけで捉えていいのでしょうか? 恋愛が時代を超えるという言い方だけではない、その時代の特有の空気があり、その空気は読み手の抱えている空気との融合で、時代時代で匂いを変えるものではないでしょうか?

さて、それでは、次に、上の引用からの出題を見てみましょう。河合塾の全統模試では、以下のように出題されています。

「明史はその手にりんごをのせながら囁いた。」という際の明史について説明せよ、というもの。

選択肢は以下の通りでした。

選択肢—-

①棗の思いがけない振る舞いを機に二人の距離がなくなったように感じ、少しでも長くこの幸福な時を味わっていたいと心をときめかせている。

②棗の自分に対する愛情を確かめ得た歓びに有頂天となりながら、棗をこれからもずっと愛し、大切に守っていくと心に誓っている。

③棗の遠慮を知らない振る舞いにたじろぎながらも、自分も解放されていく快感を覚え、いつまでもその快感に浸っていたいと念じている。

④棗の大胆な好意の表現に圧倒されながらも、喜びを隠しきれず、これまでさまざまに嫉妬し、疑いもしたことを謝りたいと思っている。

⑤棗の無邪気を装った振る舞いが訝しく思えたが、一個のりんごを一緒に食べていく喜びのなかで、そうした疑念も消え去っている。

—–引用ここまで

「全部食べないで」という囁きなので、もっと齧り合いをしたいという①が正解なのはそりゃそうよなんですが、もう少し政治的なところを強調して読み込むと、こんな選択肢もあってもいいです。

⑥親友は政治活動をして社会全体のために命を賭けているのに、自分はこんなことしていていいのか。というか、このようなことをしていたら、棗を失うのではないか。そうだ、うまくいかないに違いない。棗に相応しいのは自分じゃない。自分は道徳的に堕落しているのだ。とすれば、今のこの瞬間は続いてほしいが、それは続かないものなのだ。全部食べてしまうことが分かっているのに、食べ終わる時が来るのが怖いのだ。

なんていう選択肢ですね。りんごのシーンの前には、親友が教諭の弾圧と戦いながら三鷹事件についてのパンフレットを配るという社会正義のための活動をしているシーンがるんですね。そんな中で、棗との距離を縮めるために文化祭の出し物巡りをしているのが主人公なので、ちょっとは引け目を感じてもいいはず。ということで、もっと政治や道徳という観点を出すと、上の⑥という読み方も正解とは言えないまでも出てきます。(引用部分には直接は出ていないので正解にはできないです。しかし、夏目漱石の『こころ』を思い出してください。志のある男子が恋にうつつを抜かすなんて恥ずかしいことだという道徳感が述べられています。もちろん、近代化で失われた道徳感として描かれていたのですが・・・)

おそらく、昔はもっと⑥の感覚を持ちながら読者は読んでいたのではないでしょうか。ところが、今は⑥のように読まれないようになっています。このこと自体に良し悪しはありません。ただ、時代が変わると、読み方も変わる、つまりは普遍性がないところが出てくるのだと思うのです。この問題を読んだ受験生の皆さんが、どんな選択肢⑥を創作するのか、気になるところです。

雑感的になりましたが、このブログでは、様々なジャンルの本を取り上げながら、そこから人や組織についての知見や世界観をちょっとずつ、揺さぶっていくということを目指したいと思っています。今回の揺さぶりは、「恋愛小説は普遍的というが、小説を読む際には作者と読者の世界観が混じって、都度都度、個別に世界の見え方が異なってきている。」というところでした。

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