組織における利己主義

ヘンリー・デービッド・ソローの『市民の反抗』からの引用です。

「同胞のために自己のすべてを投げ出す者は、役にも立たない利己主義者とみなされるのが落ちである。ところが自己の一部分だけをさし出す者は、恩人とか博愛主義者などと呼ばれている」

「えっ⁉️」と思うような表現と出会うのが古典の楽しみ。
自己の全てを投げ出すものが、利己主義と見做されるというこの言葉は重い。本当に全体のことを考えて、全人格をかけて組織の方針に反対するものは、利己主義者の誹りを免れない。
それに対して、組織に従順に犠牲を払うものは何故か賞賛される。考えてみてください。ビッグモーターで、常識を犠牲にしてお客様の車を傷つける社員は、数値を達成したとして評価されるでしょう。自社の製品を家族に売るノルマを達成した社員は、良心の呵責と引き換えに社内で貢献したとして評価されるでしょう。
本当の利己主義者は誰か、組織にいると見えなくなるものです。

「あいつは利己的だ」と誰か言ったら、こう考えてください。「ひょっとしたらその人こそが賢者かもしれない」と。

逆に、自分を犠牲にして組織に貢献したつもりになっている人を見たら要注意です。そうした人の価値はイヌやウマに等しい、とされます。でも大多数の人間がそうなのです。

「大多数の人間が、およそ人間としてではなく、機械として、その肉体によって国家に仕える。それが常備軍、民兵、看守、警官、自警団などといわれるものの正体なのだ。たいていの場合、彼らには判断力や道徳心を自由に働かせる余地はまったくない。それどころか、彼らは木や土や石ころとおなじレベルに身を置いているわけだから、彼らとおなじように役立つ木製の人間をつくることだって可能かもしれない。彼らは藁人形や泥人形も同然であって、少しも尊敬には価しないのである。せいぜいウマやイヌくらいの値打ちしかないのだ。ところがこうした者たちまで、一般にはよき市民とみなされている。そのほかにも、立法者、政治家、弁護士、牧師、官吏などがいて、その大部分は主として頭を使って国家に仕えている。しかも彼らはめったに善悪の区別などしないので、神に仕えているつもりが、いつの間にか悪魔にも仕えている、といった事態になりかねない。」

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