読解力ってどういう力?

実用的な文章の読解力が落ちていると言われる。その対策として、高校の国語の教育が変わったらしい。「現代文」は、実社会で役立つに文章に特化した「論理国語」と、小説・詩を扱う「文学国語」という新しい選択科目に解体されたというのだ。

ただ、実用的な文章と文学的な文章に差があるだろうか。文学的感性なく論理性だけで出された結論は、いつも単純でかつ横暴、つまりは重要な論理が抜けている。論理性の裏にはその言葉を選択せざるを得ない感性の働きがあるし、文学の中にも、これまでの人文学の伝統を踏まえた論理がある。ジャンル分けは結構だが、論理と感性を同時に育むことなくして読解力の向上はない。

そうすると、実用的な文章を理解するためには、迂遠でも古典を読んで、どのような背景のもとで何を人間が論じてきたのかを幅広く理解することが大切だ。

「戦後の日本では、先人の残した経験や古典への敬意は低く見積もられ、社会でも学校でもあらゆる次元で権威が破壊されていった。その上に、フェイクも駄弁も中傷も平等にふりまかれるこの情報化社会がやってきた。このなかで古典や思想や偉大な文学への敬意を回復するのは容易なことではなかろう。今日、われわれを取り囲んでいる、この過剰なまでの情報と競争の社会、短期的な成果主義や万事における革新主義(改革論)、それに行き過ぎたPC (Political correctness)という時代風潮こそが、読解力への障害となっていることを肝に銘じなければなるまい。
数値的に示され、成績で評価される学力を向上させたければ、わかりやすい実用的文章を読ませ、難解で主観的な思想や文学は避ければよいだろう。しかし、それが本当の意味での読解力にもならなければ、文章から何かをえるという人生経験にもならないことは明らかである。
だが、だからこそ、われわれはひとつの大きな岐路に立たされ、決定的な選択に直面している。高度な情報化とグローバリズムのなかで世界的な競争に勝ち抜く人材を育成し、あらゆる分野で学力の向上を目指すべく教育改革を断行するという方向が一方にある。今日の英会話力の向上などもその方向を向いている。他方には、国語力を、生の経験の基礎的な訓練とみして、国際競争力などに振り回されることなく、思想や文学の基礎的な読解を時間をかけて練する、という方向である。私は躊躇なく後者こそが必要だといいたい。」

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