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第二章の続き。
フロイト理論を超えて、より社会的要素を考えるのがエリクソン。
次に出てくるのはパーソナルアイデンティティと自我アイデンティティの区別です。
パーソナルアイデンティティは、単に誰であるかを本人と周囲が知っているという程度。
しかし、自我アイデンティティになるとそれ以上です。
例えば、こどもが歩けるようになると言うことは、単に自分の動きたいという欲求を満たすこと、太郎さんは歩けると自他が認めることではありません。それだけならばパーソナルアイデンティティです。
自我アイデンティティになると、歩くということが、その人が所属する共同体の期待値によって、意味づけられ、その意味を自他が理解しているということまで入って来ます。
ここでエリクソンが挙げている例は、非常に文学的です。
インディアンのスー族のこどもを取り上げています。
スー族は狩猟民族で、歩くということは狩猟民族の文化の中で、意味づけられます。
「この子どもは、「歩ける自分」という新しい地位と評価に、たまたまその属する文化のライフプランの座標の中でどんな意味合いをもつ
かも含めて、気がついてもいる。それは、「捕食されそうになって、素早く逃げる自分」「遠くへ行こうとする自分」「まっすぐに立ち上がろうとする自分」「遠くに行き過ぎてしまうかもしれない自分」であるかもしれない。「歩ける人」であることは、数ある子どもの発達段階の一つとなり、身体を自由に動かせるようになることと文化的な意味が一致することを通して、また身体をきちんと動かせる喜びと社会的な承認が一致することを通して、子どもたちに現実的な自尊感情をもたらす。この自尊感情は、決して単なる幼児的な万能感のナルシシズムの延長ではない。この自尊感情はゆっくりと成長し、手ごたえをもって実感される集合的未来に向かう着実な歩みを自我が確実に統合することができる、社会的リアリティの中でうまく機能している自我に発達しつつある、という確信となる。この感覚を、私は暫定的に自我アイデンティティと呼んだ。」
しかし、同時にスー族は、白人によって征服された民族であり、物質文明というもう一つの価値観でも、歩くという行動を意味づけます。しかし、物資文明からすると、自分で歩いて狩猟するという物語に意味がないのは自明です。
スー族の子供は、歩くことで、意味のあふれた自我アイデンティティと、そこに意味を見出さない優勢な現代文化の両方を内面化してしまいます。これは非常に大きな葛藤です。
インディアンの子供は、期待がブロックされて夢を持てなくなる、とエリクソンは言います。
エリクソンが、マジョリティ対マイノリティという二項対立ではなく、二つの文化を内面で葛藤させて、総合できなくなる事態に言及していることをここではメモしておきたいと思います。